正月が明けて2日目。
テレビでは朝から毎年恒例の箱根駅伝を中継している。
久しぶりに二宮まで足を伸ばして選手たちを見ようと出かけてみました。
温暖な気候でありミカン栽培も盛んであり冬の晴天率も高い地域です。
声援を受けて選手たちは颯爽と駆け抜けていきました。
「応援している人たちの中に妻有地域にルーツを持つ人は何人いるのだろう?」
そんなことを思いながら帰路へ。
昨日、父の書棚から手にとった「豪雪と過疎と」の話を両親と再び。
「あれ読むと切なくなるんだよ」
終戦後から高度経済成長期の真っ只中いた父にはリアルな記憶があるのです。
全国有数の豪雪地。
平年でも積雪量は2m、多いときには3mを超える。
当然このような自然環境は人々の生産や生活に大きな影響を与えており、産業も山峡の狭い水田での稲の単作と、僅かに十日町を中心とした絹織物などがあるだけで、妻有一帯の人々の生活はきびしい。(中略)長い冬期間はこの一帯の人たちには、まったく仕事がないのである。
「豪雪と過疎と」P14
たしかに一むかし前までは、蓆(むしろ)織り、縄ない、俵編みといった冬の仕事がいくからはあったが、それも今日のように農業が機械化され、農具が近代化されてしまっては、これらの仕事の必要性はほとんどなくなってしまっている。。
したがってこの地方の男たちは、やむなく「長期にわたる出稼ぎ」に出かけることに現金収入の途を図るしかないのである。
しかも1960年頃からの高度経済成長期にあっては、この出稼ぎが恒常化したばかりでなく、通年化して定着する傾向が現れてきている。
こうして出稼ぎが単に男だけのそれではなく一家を挙げて離村し都会に出て行くように変わってきている。いわゆる「挙家離村」という言葉が生れ、過疎化現象は、いちじるしく顕著となっていった。
そして当然のことながら村には男と若者そして子どもが少なくなり老人と女だけが目に付くようになって来ているというのが偽らざる状況なのである。
敗戦復興の名の下に一気に時代が変わり、それまでのムラ社会が雪崩のように崩れていった。
山間部の集落にいた人たちは町場へ下りて来たし、都市部へ引っ越した人たちもいた。
親戚にも東京へ転居してきた一家が複数あります。
なんとも難しい時代だった。
「婦人教育」
ボクらの世代には耳慣れない言葉です。
「女の子たちは高校へ行く子なんて2割くらいだったしね」
と会津生まれの母は言う。
「自分たちには学がないから子には良い教育を受けさせたいという母たちもいた」
将来の子どもたちの姿を心配して小さな山間の学校を見限った人たちもいる。
「何よりも現金がないと生活できない状況に変化した」
「だから、みんな東京へ行こうってなった」
「その代わり給料が入ると田舎にいくらか送金して暮らしていた」
「米を作るだけじゃあ家族を養えないしね」
両親と話しながら、その時代を再確認。
この本の中には、母ちゃんたちの苦悩が綴られています。
「出稼ぎ」「機織り」「離村」
妻有で育つとはどういうことなのかも垣間見える。
生活記録の文字を追っていると、まるでその人が喋っているかのよう…
「ボクらの暮らしってこれでいいのだろうか?」
「これからの学校教育の在り方は?」
「地域の伝統を継承するためには?」
いろいろなことが駅伝ランナーのように頭の中を駆け抜けていきました。