2026年の読書始め「知性の復権」(先崎彰容)

くわさん✨️日記

今年もスポーツと教育の現場からまちづくりまで幅広く活動するので読書は必須。

2026年の読書始めの一冊はこちらです。

知性の復権―「真の保守」を問う―(新潮新書)

知性の復権:「真の保守」を問う (新潮新書 1105)
トランプ2.0を機に世界秩序は急激に変わりつつある。協調から対立、自国のアイデンティティ再構築を目指す動きはロシアや中国も同様で、こうした歴史的変曲点は百年前、第一次大戦後の戦間期にも酷似する。戦後八十年のいま、政治家や政党はこぞって「保守...

マーカーを引いた部分をいくつか紹介しておきます。

現代は一見、個人が尊重され、選択する自由が溢れている時代にも見える。しかし反面、何もかも自己決定を強要されるとは、きわめて生きにくい時代なのではないでしょうか。

ここのところ感じていた違和感を言い得ています。

個の力が大切であるとはボクも思うのですが、なんでもかんでも「自分でやりなさい」は辛い。

個人の生きる意味を自分自身で考える時代では、結婚することも、子供をもつことも、性の自認も、エリート像も、死の意味づけすら、すべて自己決定せねばならない。

いったいボクらはなんのために生きているのか。

混迷を深めそうな世界情勢の中で、一定の共同体(国家も含め)と個人の関係が改めて問われるかと…

確かに成功すれば、世界的に活躍するスポーツ選手になることもできる。でも彼らは本当の一握りにすぎません。実際は、みなどこか生きづらく、窮屈で、迷い、孤立したまま世間の冷たい風を感じている。「わたし」にこだわり過ぎた結果、日本人の生は衰弱しているのです。

まだ昭和世代で戦後20年余りで生まれたボクらには日本人としての自覚はある気がします。

でも、今の若い世代はどうなんだろうかと考えてしまいました。

すべてがバラバラで窮屈なのは、個人の人生観だけではありません。デジタル田園都市国家や地方創生、道州制といった議論が巻き起こるのも、中央政府の権威の崩壊、権力の分散化の流れに乗って起きている事態なのです。
テレビからYouTubeへという変化と、地方分権はおなじ時代感覚からきている。自民党人気が崩壊し、多党分裂がおきているのも、もちろん時代を反映している。

中央政府による責任が放棄され「ちょっとは補助するから自分たちでやりなさいよ」っていう流れ。

ここにも集団と個人の距離感の難しさが表れています。

アメリカに対抗するために、ロシアが中国と戦略的関係を深めていることを考慮すれば、今や、ロ中朝三国が連携しながら、大きな口をあけて日本を呑み込もうとしているようにみえる。

冷静に考えても東アジアの現状はこうなんだろうなとボクも感じています。

今回のトランプ大統領によるベネズエラ大統領の拘束の影響が東アジアへ波及する可能性もある。

戦後のわが国が、圧倒的に「生者の論理」で動いてきたという事実です。戦後一貫して高度経済成長を目指してきたわが国は、生者の論理で構築された社会です。

たしかに「生きる」ということが最重要であることや「命の大切さ」を学校でも伝えてきた。

さらには「豊かに生きる」なんてことも模索してきたけれど、「死を意識する」ことも必要。

筆者が小学生のころ、西武新宿駅近くのガード下では傷痍軍人たちが靴みがきをしていました。母親に手を引かれながら、その 饐えた匂いのなかに、筆者は死の匂いを、つまりは戦後社会が消し去ろうとして、消すことのできないものを感じ取っていました。その匂いすら消臭して、経済発展を目指した挙句、社会から陰影が消えたのです。

ボクにも同じような幼少期の体験がある。

新宿駅や親戚が住む大塚駅周辺にも、戦後の混乱を生きる人たちがいた。

今、わたしたちは「死者の論理」を直視する段階にきています。なぜなら強兵とは、畢竟、死を考えることだからです。国づくりの基礎に、犠牲者がでることを前提にせねばならない時代がきている。言いかえれば、今後、わが国の戦闘行為で死者がでた場合、どこに祀り、どう慰霊するのかを念頭に置くべきだということです。鎮魂の仕方について、国家儀礼としてどうするのか。総理大臣や防衛大臣以下、今の政治家が議論しているとは思えません。

国家間の問題も対話を止めてはいけないと思うが、残念ながら軍事衝突は起きる。

そこから目をそらしてはいけない時代に突入しているのかもしれない。

日本がみずからの国力の限界を正しく把握し、多国間とつながりを持つ必要性があるということだ。

高度経済成長の時代に育ったボクには、まだまだ右肩上がりのイメージが色濃く残っている。

右肩下がりに現状を認めたくないのは、さらにボクらの上の世代の人たちなら尚更かもしれない。

かくして令和日本のデザインは、国内では新自由主義的思考に歯止めをかけ(新・富国論)、外交安全保障政策では、第三の極を形成することにくわえ、「抑止対話」で応分のプレゼンスを確保することにある(新・強兵論)。

「第三の極」については、本書を読んでいただきたいと思います。

我が国ではタブーとされる「核の保有」についての話が出てくるのもうなずけます。

鉄道や蒸気機関を導入するに際し、なぜそれが必要なのか、日本人は独自の価値基準をもつべきだと西郷は説いていました。それは令和の日本でいえば、わが国の国柄を自問自答することです。はじめて個別政策が生きてくる。だとすれば、核開発が必要ないのはもちろん、自分なりの価値基準があって、急激な防衛費の増強よりも大事なことがあるのではないか。

なんでもかんでもパッチワークのように政策を講じていてはだめ。

「なぜそれが必要なのか」という価値基準をどうすれば明確にできるのか考えさせられます。

日本人の「決断力の遅さ」を徹底的に自問自答すること

この記述は耳が痛い。

とりあえず「保留」するとか「検討する」として先延ばしにして自分たちは責任を取らない。

たとえどれだけ防衛装備品を充実させたとしても、南西諸島に自衛隊機も使用可能な滑走路を整備したとしても、その使用について的確な決断と実行ができなければ、他国への抑止にならない。

一見よさげな道路整備や公共施設の建設も同じ論理かもしれません。

とりあえず造ったけれど、その使用について的確な決断と実行がなくて費用対効果が薄いとか。

つまり、日本人論を議論しないかぎり、抑止もできないのです。強兵策とは、声高に防衛力の強化を叫ぶだけの景気の良いものではない。世界が流動化し、羅針盤を失い、即応性が求められる時代だからこそ、今、日本人は決断力をもつことによって、精神の自由を取り戻さねばならないのです。

さて、戦後のボクらは「日本人」として共通の明確なイメージを持ち合わせているでしょうか。

そんなことも含め、歴史から学ぶ必要がありそうです。

知性の復権:「真の保守」を問う (新潮新書 1105)
トランプ2.0を機に世界秩序は急激に変わりつつある。協調から対立、自国のアイデンティティ再構築を目指す動きはロシアや中国も同様で、こうした歴史的変曲点は百年前、第一次大戦後の戦間期にも酷似する。戦後八十年のいま、政治家や政党はこぞって「保守...