ボクらはいつから、「体験」を特別なイベントとして捉えるようになってしまったのでしょうか。
休日に出かける「お楽しみ」、お金を払って参加する「プログラム」など。
大人が用意したものだけが子どもにとって価値のある体験だと錯覚していませんか。
そして、その「特別な体験」を用意するために、大人が奔走し、子どもたちのスケジュールを埋め尽くす。
良かれと思って与えすぎるその行為が、子どもたちから最も大切なものを奪っている。
体験は、非日常に隠されているのではありません。
体験は、水や空気のように、常に、そして豊かに、日常の中に溢れているのです。
雨上がりの水たまり。道端に咲く小さな花。洗濯物を畳む手伝い。
ごはんの匂い。
兄弟喧嘩。
友達とのたわいないおしゃべり。
失敗して涙する瞬間。
自分で考えて工夫すること。
退屈な時間。
これらすべてが、子どもたちの五感を揺さぶり、心を動かし、思考を深める、かけがえのない「体験」です。
特別な仕掛けなど何一つない。
ありふれた日常の断片こそが、子どもの内側に確かに積み重なり、その子だけの感性や知性、生きる力が育まれる。
ボクら大人が、子どもたちの日常から「体験」を摘み取ってしまってはいけません。
過保護に囲い込み、先回りして与えすぎることはやめましょう。
子どもが自らの力で世界を発見し、関わり、学び取る機会を奪ってはいけません。
子どもに必要なのは、「用意された体験」ではなく「体験する余白」なのです。
大人がすべきことは、レールを敷くことでも、箱を用意することでもありません。
子どもが安心して日常を過ごせる環境を整え、ただ見守ることです。
子どもが立ち止まり、しゃがみこみ、つまみ上げ、匂いを嗅ぎ、考え込む。
そのかけがえのない時間を尊重すること。
子どもは、驚くほどの感性と探求心を持っています。
大人が想像もしないような方法で、日常のあらゆる瞬間から学びを見つけ出す力を持っています。
その力を信じましょう。
だから…
「特別な体験」なんて、求めなくていいのです。
日常こそが、最高の学びの場です。
そして…
最高の体験は、いつも、彼らの「あたりまえの日常」の中にある。
大人は、その日常を、そっと、ただ見守るだけでいいのです。
【参考図書】