「お前な!もっと子どもたちに浸れ!」
居酒屋で尊敬する先輩にそう言われたのだけれど…
授業を進めなければいけない。
「ねえ!くわまん!2組はもうここ終わってるよ」
当時のクラスには双子がいたので隣のクラスの情報がよく耳に入った。
その度に何ともイヤな気分になり焦りを感じたものだ
別に彼女は事実を伝えただけなのに責められているようで苦しかった。
休み時間に校庭で子どもたちと遊ぶのが精一杯だった頃だ。
「子どもたちに浸る?」
これが本当に難解だった。
ウルトラマンは地球人に乗り移り、変身する前の地球人の目を通して世界を見る。
でも…
ボクはウルトラマンじゃない。
「子どもたちに浸るとは子どもたちの目線で考えることかな?」
それくらいのことしか考えられなかった。
目の前の子どもたちの姿から自分なりの推測をする。
「たぶん、こう考えているから、こんなアドバイスをすればいいな」
今思えば浅はかな行為だった。
パッと見て、パッと判断して、パッとアドバイスをする。
森の中でジーッと何かを待つような感覚ではない。
ゲーセンのモグラたたきのように即座に反応してアクションを起こす。
何かアドバイスをすると一瞬は改善されたような気にもなった。
でも…
子どもたちは気づいたら元通りになってしまっていたのだった。
当時、その学校の子どもたちが集まるサッカーチームのコーチもしていた。
そこでも似たようなことがあった。
ある子が簡単にボールを奪われる。
「今、どこ見てた?ボールが入る前に周りを見るんだよ!」
簡単に見えるシュートを外す。
「ボールが入る前にゴール見た?ちゃんと見ておけば簡単だぞ!」
現象を捉えて何かしらアドバイスをするのがコーチや先生の仕事だと思っていた。
「何か教え与えることができてこそ教師なのだ!」
そんなふうに思っていた頃だ。
ある日のこと…
「さて問題です。45分のうち、くわまんが喋っているのは何分でしょうか?」
ニヤニヤと笑いながら先輩から問われた。
「半分くらいですかね?25分とか?」
「教室の後ろにカメラでも置いてみたらいい。喋りすぎだってわかるよ」
それから自分が喋っている時間を気にしてみると自分の至らなさが露わになった。
ずっと喋っている。
板書をしている時に子どもたちは解放されたように動き出す。
手紙を回したり、小さな消しゴムを飛ばし合ったり…
教師であるボクと子どもたちの世界には隔たりがあったということだ。
カオスだった。
「喋るの我慢しろ!いいから子どもたちをジーッと見るんだよ」
どうすればいいのか分からなくなっていたボクに先輩は言った。
とはいえ授業を進めなくてはいけない。
「喋らずに授業するってどういうことなんだよ?」
それから長らく命題となったのだがヒントは休み時間にあった。
子どもたちが楽しんでいる瞬間にはにボクが出る幕はない。
ただただ眺めている。
そこで何かしらの評価や分析もしてはいけない。
ただ何が起きているのか事実を感じ取ることのみに集中するようになった。
正確にいえば心がけるようになった。
気を抜くとすぐに邪心が入るのだが…
「事件は現場で起こっている」
目の前で起きていることの背景を感じ取ることができるようにと心がけたけれど…
相棒の右京さんのようにはいかない。
でも喋ることを少しずつ手放したら少しずつ子どもたちの姿が見えてきた。
それから四半世紀が経過したある日の光景が今日の画像だ。
この頃は観察するのではなくボーッと見ていられるようになったのだ。
何かを見てやろうとすると見えないことがある。
もっと早く気づけば良かったよね。
喋るのをやめるって…