どこを見ても子どもたちが前を向いて座っている授業風景。
子どもたちが注目すべきは、先生の視線と表情、そして説明。
子どもたちの視線は、先生、黒板、教科書、ノートを行ったり来たりするのです。
ひたすら繰り返される動作を見ていて、何とも言えない気持ち悪さが残ってしまいました。
教室の後方にいれば、他に視界に入るのは、同級生たちの後頭部ばかり..
問いに関して対話することなどはない。
淀みなく見える授業…
先生たちは、進度に合わせて授業を進行するのに必死です。
これが当たり前だと思っていて違和感を感じていないのでしょうか。
それとも、本当はイヤなんだけど仕方なく授業しているのでしょうか。
いわゆる講義型の授業では、子どもたちは受動的にならざるを得ません。
先生たちも、型に縛られているという意味では受動的です。
「しゃべり続けるってのは大変なんじゃない?」
という問いに対して…
「その方がラクっていう側面もあります。」
なんて答えも返ってきます。
それって、どう意味なんだろう?
「私は、ちゃんと板書もしていて教科書通りに進行しています。」
「だから、子どもたちには進行通りについてきてほしい。」
ってことなんでしょうか?
となると問われるのは
「○○先生だと分かりやすくて、やる気もでるよね。」
「△△先生の授業って、わかりにくいからマジやばい。」
なんてシビアな子どもたちの評価が待っています。
そして、同僚や保護者からの評価も気になって仕方ない。
教室後方に張り出されてる自己紹介カードは、全て共通のもので独創性もありません。
型にはまりすぎ息苦しいと、小さな子どもたちは、正直なので騒ぎます。
そこにいること自体が単純に面白くないから、幼稚園生だったら教室を逃げ回るほどです。
それでも、子どもたちも評価を気にするので良い子のふりをします。
高学年や中学生にもなれば、教師の圧力を感じ取って、とりあえず座っている。
本当はイヤだけど、授業態度が悪いっていう評価を避けるというのもあります。
どうしようもないってときには学級崩壊ということになるわけですが…
子どもたちからの印象が良くなるように必死になって授業するって何か違う。
先生も子どもたちも苦しいだけだから、一斉授業スタイルからは脱却すべきです。
流れ作業のように授業を進めなければならないから、躍起になって授業準備を先生。
学ぶ主体は子どもたちなのに、いつしか先生たちが主役みたいになって勉強させている。
基本的な事項は、しっかりと説明をする必要があるので一斉授業スタイルの時間も必要です。
必死に授業についていこうとする、あるいは座っているだけの子どもたち。
これじゃあ、毎日が苦しいだけです。
学びってのは、興味関心、好奇心がスタートです。
「それって何だろう?」
「どうやればクリアできるんだろう?」
「よし、やってみよう。」
「あれ?なんでこうなるんだ?」
「○○ちゃん、これってどうやってやんの?」
「あ、これね、こうするといいんじゃないかな?」
「あ~、そういうことね。」
なんて対話があって、子どもたちが主体的に学んでいく。
そんなことの繰り返しで楽しくなっていく。
「学び」っていうのは、自分からっていうのが重要なんじゃないかな。
問いは続く…
Good Luck.