スッキリとした青空が広がった丹沢・大山の麓。
ゴールデンウィークは出かけるのも良し、読書にふけるのも良し。
今日の一冊は「民主主義を疑ってみる」(ちくま新書)
民主主義とは、個人に対して投票用紙とともに政治責任をも配分する政治システムです。政治のあり方に対して責任を負っているのはほかでもない私たち一人一人の人間です。
「民主主義を疑ってみる」(ちくま新書)
子どもの頃から学校で習ってきたけれど、今ひとつ浸透しないのが現代の日本。
もちろん教育で重厚な扱いをしてこなかった(個人的感想)というのもある。
「日本にはシチズンシップ教育がない」なんて批判を受けることもあります。
政治参加なき自由主義によっては個人の権利は守られませんし、普通選挙を前提としない共和主義はエリート支配に傾きがちです。また公正で定期的な選挙を欠いた社会主義は、ソ連のような全体主義に容易に陥ってしまいます。その意味で、民主主義は私たちにとって不可欠な政治制度です。
「民主主義を疑ってみる」(ちくま新書)
本書には、政治思想がどのように変貌してきたが書かれています。
アリストテレスやプラトン、ソクラテスの話まで出てくる。
中世ヨーロッパの話なども興味深く読むことができます。
まずプラトンはスパルタのような国家を称賛し、子どもは国家の共有財産として国民総出で育てるべきだとします。それに対してアリストテレスは、「子どもはみんなのものだ」ということにしてしまうと、誰も子どもに愛情を注いで真剣に育てなくなってしまうだろうと反論します。
「民主主義を疑ってみる」(ちくま新書)
その昔、こんなことが語られていたことを知るだけで体温が上がる。
どのように社会を形成するのか、子どもたちをどのように育むのかは永遠の課題。
世の中の変化によって様々な議論がなされてきたことが分かります。
民主主義という政治思想の根源に「自分たちの力で自分たちの運命をコントロールしたい」という民衆の願望があったように、子どもを共有財産として捉える発想はこのような運要素を共同体の力でなるべく減らしたいという願望に依拠しています。
「民主主義を疑ってみる」(ちくま新書)
現状、日本において子どもの教育が「家庭」と「学校」の双方に、大づかみに言って半分ずつ委ねられているということは、日本における資本主義(自由主義) と社会主義の関係を考えるうえできわめて示唆的です。
この一節から現代の学校のあり方を考えるのも面白い。
人間は本能を含む自然法則によって一方的に規定されるだけの単なる動物でもありません。自然の成り行きに任せる 以上のことができるのが人間
「民主主義を疑ってみる」(ちくま新書)
本当にその通りで、ボクらには社会をなんとかしようという意志が少なからずある。
市町村や都道府県、国家という大きな範疇で物事を考える余裕はないかもしれない。
それでも、その大きな組織はボクらの個人的な生活に大きな影響を及ぼすのです。
だからこそ、ただの従順な善き市民でいるのではなく、能動的な市民になる必要がある。
何ができるかなんて分からないかもしれません。
そうは言っても諦めず…
一人ひとりの小さな力が社会を構成していることを忘れないようにしたいものです。