AI vs. 教科書が読めない子どもたちを読んでいます。
新井紀子先生には、10年ほど前にNetcommonsプロジェクトでお世話になっていました。
市内の小中学校のウェブサイトはNetcommonsで運用されています。
導入にあたり国立情報学研究所へは、よくお邪魔したものです。
何とも懐かしい時代(笑)
さて、昨年はAIに関する多くの情報がメディアを賑わせました。
「AIが神になる」、「AIが人類を滅ぼす」、「シンギュラリティが到来する」──。そんな扇情的なタイトルを目にするたびに、私は突っ込みを入れています。「AIが神になる?」──なりません。「AIが人類を滅ぼす?」──滅ぼしません。「シンギュラリティが到来する?」──到来しません。
たしかに煽られてしまうような内容が目立ちます。
そんな世論に対して数学者である新井先生はこう言うのです。
AIやAIを搭載したロボットが人間の仕事をすべて肩代わりするという未来はやって来ません。それは、数学者なら誰にでもわかるはずのことです。AIはコンピューターであり、コンピューターは計算機であり、計算機は計算しかできないからです。
なるほどなあ。
確かにコンピュータは計算機ですよね。
それでも…
人間の仕事の多くがAIに代替される社会はすぐそこに迫っています。つまり、AIは神や征服者にはならないけれど、人間の強力なライバルになる実力は、十分に培ってきているのです。「東ロボくん」は、東大には合格できませんが、MARCHレベルの有名私大には合格できる偏差値に達しています。
なかなか優秀なんだなって思います。
そして、たしかにAIに代替される仕事も増えることでしょう。
じゃあどうすればいいのか?
私たちが、人間にしかできないことを考え、実行に移していくことが、私たちが生き延びる唯一の道なのです。
暗記や計算ではなく、熟考して新しいアイデアを生み出す力はAIにはありません。
プログラムされるのはパターンでしかないからです。
とすると「考える力」はとても重要になってきます。
目の前の事象について、深く考えること。
そして、課題解決についてありとあらゆる情報を紡いで最適解を見いだすこと。
これらはボクらにしかできないことかもしれません。
一例として新井先生は「ほぼ日」について触れています。
これはなかなか面白いと思いました。
私が今、一番可能性を感じているのは、80年代に一世を風靡したコピーライターである糸井重里さんが実践している「ほぼ日刊イトイ新聞(ほぼ日)」という「商い」の在り方です。(中略)「ほぼ日」がメディアなのか、モノづくりなのか、営業なのか、何なのか、よくわかりません。たぶん、「総務」とか「会計」とか「商品開発」のように名刺を見たら何をしているのかわかるような仕事は、何をしているかわかるが故に、AIに代替されやすく、先細って行くと思われます。けれども、「何の仕事とはっきりは言えないけれども、人間らしい仕事」は、AIに代替されることなく、残っていくのです。
なるほどなあ。
だから「学校の先生」の仕事もなくなりませんね(笑)
むしろ、ますます重要な仕事になりそうです。
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