寒い朝、ヒーターとストーブを同時に点火して珈琲を淹れる。
そして、お気に入りのノートと万年筆を準備して読書からスタートするのが最近の日課です。
ここのところ、ハマってしまったのが「哲学」
昨年、苫野先生に会ってから気になって何冊か読ませもらったのですが改めて著書を再読。
再読のきっかけは、先日、早稲田大学にて苫野一徳先生の講演へ参加したことです。
お話の中でも、質疑応答の中でも頻繁に紹介されたのがこれ↓
こちらは読んだことがなかったので、メモをしながら読ませてもらいました。
ちょっと、今のボクにはめちゃくちゃツボで(笑)
「欲望相関性の原理」なんて最高に面白い。
「僕らは世界を、僕たちの“欲望” や“関心”に応じて認識している。」
なんて書いてある。
たしかにそうかもしれない。
描いてた教室の在り方もボクの“欲望”によって都合良く解釈されていたのかもしれない。
ボク自身は、集団統率派の抑圧的なやり方を徹底的に否定してきた。
「なんでそうなったのか?」を考えてみると、少年時代にヒントがありました。
小学校4年生の秋のこと…
まあ、その頃のボクと行ったら酷いやつで、いわゆるジャイアンの出来損ないでした。
朝、登校したらランドセルは昇降口から運ばせる。
身体も大きかったし、とんでもないカーブを投げられる東京からの転校生だったし…
めちゃくちゃ警戒されていて、さてどうしたものかと思っていた頃です。
教室の後ろにある大きなポリバケツに、時の番長を突っ込んでクラスで天下を取ってしまう。
たしかに新参者で舐められてはいけないと必死だった頃です(汗)
そうして、しばらくいい気になっていたら悲劇は突然やって来ました。
体育の時間、時の担任の先生に校庭に残されて正座をさせられ説教をされる。
なんだか分からないまま怒られて…
それまで友だちだと思っていた仲間は離れていきました。
「そして、誰もいなくなった…」というのが現実に起きてしまった。
中学校時代は校内暴力も最盛期で、いわゆるヤンキーが闊歩する頃…
とにかく管理的な先生には刃向かっていていた頃です。
小学校5,6年で、すっかり先生に意見するやつと認識されていたボクは最前線に立たされます。
今では想像できないと思いますが、いわゆる「武闘派」ってやつです(笑)
何かあれば「なあ、先生に言ってくれよ!」と言われる立場になっていきます。
当時の中学校は、やっぱり管理的で校則も厳しかったし体罰もあった。
もっとも、そんな体罰に校内暴力で反発していた時代でもありますが…
「俺は、先生だ!だから、お前たちは言うことを聞いてればいいんだよ!」
みたいな先生たちには徹底的に反発したものです。
「俺たちは腐ったミカンじゃねー!」
なんていうふうに戦っていた(笑)
どうして、そんなことを思い出してしまったかといえば…
「発生的本質」の話が出てきたからです。
50も過ぎたボクが持っているこだわりはどこが起源なのかを考え始めたわけです。
すると、やっぱり幼少期から少年時代に遡ることになります。
ボク自身、管理されるのがたまらなくイヤだったことを思い出します。
子ども時代に、無意識のうちに夢見ていた教室があったのかもしれません。
そんな夢が「自己ロマンの投影と陶酔」によってもたらされているものだとしたら…
それはそれで問題がある気がします。
だって…
「学校」や「教室」の世界観は、人それぞれだから。
だからこそ、ボクは関わる全ての人たちを対話しながら学校を創りたい。
唯一無二の正解には辿り着けないけれど、その時の「最適解」は常に出しておきたい。
今のところ、そんなことを思っています。
それにしても「哲学」って凄い気がする。
ボクはボクなりに「物事や問題の本質を洞察」することを楽しみたいと思います。
そろそろ冬休み…
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