秋らしい風が吹いた丹沢・大山の麓にて。
今日もあれこれと子どもたちを取り巻く状況を考えます。
「子どもたちの力を信じよう!」
とか…
「子どもたちが自分自身の力で主体的に行動できるようにしよう!」
とか…
いろいろ言われているけれど、残念なシーンに遭遇することが多い。
「子どもたちは、大人の適切な支援がないと動けない」
これがなかなか曖昧な表現で…
そもそも子どもたちの力を信じているか否かによって変わってしまうのです。
「子どもたちには自ら動こうとする力がある」と信じている人たちは任せることができる。
そして待つことができるのです。
子どもたちの潜在的な力を信じているから。
「そうは言っても教えてやらないとダメな子だっているでしょ!」
っていう人たちもいます。
たしかにそういう面はあるかもしれませんが、ボクは違うと思っています。
表現が難しいのですが、ちょこっとだけヒントを与えるのとほんの少しだけ教える。
超わかりにくくてごめんなさい。
植物でいえば、よく育つようにと肥料や水を与えすぎないってことでもあります。
根っこの先に少しだけ水を与えておくだけ。
そこまでグイッと根を伸ばそうとする生命力いたいなものを信じているのです。
厄介なのは大人の承認欲求です。
親として、これだけちゃんとやっているとか…
教師として、これだけちゃんとやっているとか…
そんな勘違いが子どもたちを苦しめることもあるんです。
ボクもそんな時代がありました。
「これだけやっているのだから文句を言われる筋合いはない!結果が出ないのはその子の問題」
なんて思っていたのです。
でもね…
「もう教えすぎるのはやめよう!」
って思って手放した瞬間に子どもたちの姿が大きく変わった瞬間が忘れられないのです。
「子どもだから、ちゃんと教え与えなきゃいけない」
そんな奢りと自己満足を解き放った瞬間でもあります。
教えすぎは厳禁。
でも、全く何もやらないのは放置ですから、それも違うんです。
ほどよい放牧っていうか何というか…
そして、常に子どもたちには答えを教えてるのではなく問いを与える。
「くわまん、何を言ってんだ?」
とか…
「え?それはどういうことだ?」
なんて?マークが飛びまくって自分なりの答えを出してみる。
スポーツの現場でも、教育の現場でもそんな感じなので子どもたちは脳みそに汗をかく。
当のボクは教えすぎないように必死に我慢して…
一人ひとりの子どもたちを観察しつつ問いを考える。
まあ、そんな感じでずっと過ごしています。
日々是修行ですね。