朝から気温は30度に迫る残暑厳しい丹沢・大山の麓。
暑さの中での運動会予行もありましたが、子どもたちの笑顔は最高でした。
週の真ん中水曜日。
今日も「子どもの成長を見守る話」
お時間ありましたらモヤモヤを一緒に。
「先生」「コーチ」「親」と権力
いつものように教室の後方から子どもたちを眺める。
一日のうちで黒板の前に立ち続ける時間は極めて少ない。
「なんでそんなふうにしているんですか?」
っていう質問がよくあります。
「だって主役はボクらじゃないでしょ」
って答えると、ほとんどの方がビックリします。
「そんなことじゃ、子どもたちになめられませんか?」
なんていうご指摘を受けることもありますが…
そもそも子どもたちになめられるっていう感覚がわかりません。
どうも何かしら権力を振りかざさないと身が持たないようです。
どんな世界にもある話ではありますが…
「普通の先生」「普通のコーチ」「普通の親」って?
ふと思い出した言葉があります。
教師のなかには、教師であることを第一の存在証明にしている人が残念ながら多くいる。そうした教師を、私は”普通の先生”として受け入れないことにしている。普通の先生は、偏差値や学力でこどもを区分けする慣習を疑念を持たずに受け継いでいる。そしてその価値観のまま、上から物事を進めていこうとする。
必要なところに私は行く(宮澤保夫)
星槎学園の会長であった宮澤先生の言葉です。
子どもたちになめられたくないと思う先生たちのことを指しているのかも。
そして、偏差値や学力で子どもを区分する。
子どもたちに勉強をさせ、いい点数を取らせるのが使命だと思っている。
それが当たり前の世界なのかもしれません。
大人の解釈によって区分けされてしまう子どもたち
我が家のサッカーボーイズたちの置かれる環境を長らく見てきました。
部員が多かったりするとAチームとかBチーム、さらにC、Dまでありました。
これほとんどがコーチたちによって決められちゃうんです。
「ボクはAチームにチャレンジしたい」
なんて子どもたちの意見が反映されるなんてことは、ほとんどありません。
チームカラーにフィットしたコーチ好みの選手たちが出場機会をつかみます。
コーチ陣は、自分たちの思うようにサッカーをさせ評価する。
そして、子どもたちはコーチたちに気に入られるようにプレーする。
これでは主体性なんてでてくるわけがありません。
こういった世界では「子どもたちを見守る」という気持ちが薄い。
実は学校でも同じようなことは多々あるのです。
続く…