明治の学制発布以来、ずっと変わることのない光景
黒板が前にあって、先生が話をしたり板書したりする。
子どもたちは背筋を伸ばして話を聞き、教室は静かに秩序が保たれているように見える。
ボクらが知っている教室は、こんな光景です。
板書されたことは一字一句まちがえることなくノートに記述。
「分かる人!」
と先生から言われたら、元気よく手を挙げます。
みんなが手を挙げられるのは質問が簡単な内容だから…
「はい!はい!はい!」
必死になって先生に指名してもらおうとするのが子どもたちです。
授業参観にでもなれば、分かってなくても張り切って手を挙げる。
意図せず指されてしまったら、
「忘れました。」
なんて言って笑われる。
子どもたちは常に正解を答えなければならず、ついていくのに一所懸命。
正解できる子は素晴らしく、答えられない子は問題視される。
いわゆる”勉強ができる子”が重んじられる教室は差別も生み出します。
「あいつは頭がいいから言うこと聞くけど、あいつはバカだから聞かない。」
訳の分からない序列ができてしまう。
先生たちは、クラスが荒れていくのが怖がる。
下手すれば学級崩壊が起こり、子どもたちや保護者たちから軽蔑される。
周りの先生たちからの評価も下がる。
だから、どんどんルールで縛って子どもたちを管理してしまうのです。
学級経営でも授業法でも、そんな管理を助長する書籍が山ほどある。
「主体的に学ぶことが大切です。」
と言いながら、先生のプログラムに合わせてくれている子どもたちに気がつかない。
本当に、そんな教室のままでいいのだろうか。
先生は前に立っていなくてもいいんじゃない?
こんな教室の光景に驚く先生たちがいます。
ベンチがある教室…
「私立小学校?」
いえいえ公立小学校です。
「一人だけやってるんでしょ。」
いえいえ学年みんなでやってます。
おそらく日本国内でも一つだけでしょう。(笑)
いつの頃からでしょうか…
ずっと黒板の前で話し続ける自分に違和感を覚えたのです。
ちゃんと話を聞いてくれて、ノートも取ってくれて、発言してくれる子どもたち…
そんな姿に満足する自分がいる一方で、そうできない子たちは置き去りにしている不安。
授業についてこられなかった子どもたちは、休み時間や放課後に指導する。
楽しみに学校に来たはずなのに苦痛を与えることになり兼ねない。
サッカーの現場でも同じような光景を毎週のように見ていました。
コーチが指示を出しながら子どもたちがコマのように動く気持ち悪いサッカー。
そこにはプレーを選択する自由などはなく、ミスをすれば交代させられる。
ベンチの顔色をうかがいながらプレーする子どもたちを多く見てきました。
「いやだな。こういうの…」
そんなボクは、ベンチで怒鳴ることも教室の前に立つこともやめることにしました。
いつも先生が黒板の前に立っている必要はない。
もっと子どもたちの近くにいた方がいい。
そんなことを具現化できる教室のスタイルを模索しました。
いわゆる”コの字型”の配置も試しましたが何だか違う。
なんやかんやで4人1組で座る”アイランド型”に落ち着いています。
ゆったりとしたオランダの教室がヒントになった
2012年の夏、オランダの学校で見た教室風景。
穏やかな空気が流れ、それぞれの子どもたちが居心地よく過ごす空間。
一人ひとりが尊重されている。
全ての活動において起点は自分自身…
学習は、それぞれのレベルに合わせて淡々と進む。
小さな子どもたちでさえ人生を楽しんでいるかのようです。
ここには大きなヒントがあり、それまでやって来たことに拍車がかかります。
ずっと取り組んでいたアイランド型は間違いがないという確信。
帰国後、サークルベンチを導入。
子どもたち同士の距離が縮まり、教室の空気は変わりました。
もちろん、ボクと子どもたちとの距離も縮まって風通しの良い空間になっています。
「みんな仲良く!」
「いじめはいけない!」
なんて言う必要はありません。
何か問題が起こっても、子どもたち同士で解決してしまいます。
それは、きっとボクがやりやすい教室から子どもたちが過ごしやすい教室になったから…
ちょっと足りないのはICT機器かなあ。
もっと個別に学習できる道具がほしい。
「教室のあり方」を問いつづける進化は続きます。
Good Luck.