スポーツや教育の現場では「指導」という言葉が当たり前のように使われる。
子どもたちが何かやらかしたも思ったら指導をする。
サッカーの現場では単純なパスミスから失点すると怒号が飛ぶなんてこともある。
そして、ハーフタイムや試合終了後にネチネチと説教をする。
子どもたちは聞いているようで聞いてないのに…
それが指導だと勘違いしてしまいがちなのがボクら大人だ。
時として、その指導が行き過ぎて子どもたちを追い込んでいく。
大好きだった競技を嫌いになる。
監督やコーチの顔を見たくなくなる。
教室でも同じようなことは起こる。
先生との関係性が学校へ行きづらさを生み出しているという報告もあるほどだ。
ややもすれば不登校になり、最悪の場合、自ら命を絶ってしまう。
どうしてこうなってしまうのだろうか、本当に悩ましい問題である。
巷には指導教本が溢れかえっている。
書店でもインターネット上でも「〇〇メソッド」は簡単に見つかる。
経験が浅ければ浅いほど、その手の本にはお世話になるものだ。
「授業はどのように進めるのか?」
「わかりやすい板書の仕方は?」
「子どもたちを夢中にさせる話し方は?」
「効果的なICT機器の使い方は?」
「トラブルの対処法は?」
あげればキリがない。
ボク自身も教育技術やジュニアサッカークリニックなどを読み漁った。
その時の手順はこんな感じだ。
1.買ってきた本のページをめくる。
2.使えそうなメソッドをピックアップする。
3.教室やグランドでやってみる。
何だか結果が出たような感じがすれば調子に乗る。
今ひとつ結果が出ない時はやめてしまう。
ボクは「指導をする人」で子どもたちは「指導される人」
経験が浅い頃は、そんな構図しか描くことができないものだ。
ところで…
教員の世界には年次研修というものがある。
新採用を終えて5年目までは市の指導主事が毎年やって来る。
その後は5年次経験者、10年次経験者と5年後ごとに続く。
2年次研修では2人の指導主事が授業の様子を見に来た。
指導書などを見ながら指導案を作って授業も順調に進んだ。
「なかなかいい感じのクラスですね。子どもたちも明るい」
「授業も流れがあってよかっと思いますよ」
冒頭から良い点をほめてもらってホッとしたのだが…
後に上司になったもうひとりの指導主事の言葉にハッとさせられた。
「今日の授業って、先生じゃなくてもできますよね」
この一言で脳みそをひっくり返されることになった。
「え?どういういこと??ダメってこと?」
状況が一変してしまった。
「教科書に書かれていることを説明していくのは誰でもできます」
「でも、先生にしか語れないエピソードがなかったのでしょうか」
「テーマに対して面白さを感じてる姿は見えませんでしたね」
というようなことを言われたのだった。
その時のテーマは「自動車産業」
ボク自身がどのように自動車と関わってきたのかを話すと良いという。
「ただ授業を流すだけなら、あなたじゃなくていい」
そんな話になった。
「いいんだよ。教師にならなくて…」
という例の話と同じようなことだ。
「先生である前に一個人としての話が必要」
「くわちゃんにしかできない授業ってあるでしょ」
後に上司となる先輩は酒を注ぎながらボクにそう言って笑った。
「子どもたちのファンになって一緒に学ぶんだよ」
「教えるのじゃなくてて一緒に学ぶ」
「そうすれば勝手に面白い授業になるから」
なんてことも教えてくれた。
それからはボクにしかないエピソードを交えて授業をするように心がけた。
ところが、余計な話が長くなって授業がちっとも進まない。
なかなか塩梅が難しいものだ。
ただ、気づいたことがある。
なんだか子どもたちとの間が柔和になってきたのだ。
ちゃんと授業をするのも大切だけれど…
一緒に学んだり、遊んだりすることが大切だ。
「子どもに浸るってこういうことなのかもしれない」
だんだんと理解してきたような気がした。
いきなり指導する前に、やっておいた方がいいことがあったのだ。
そして…
サッカーの現場で「オープンマインド」という言葉に出会うことになる。