混沌とした世界の中で生きるには?

土門拳写真美術館
土門拳写真美術館

「令和7年7月7日」

ラッキーセブンと言われる数字が並ぶ一日でしたが酷暑でもありましたね。

これでは身体も溶けてしまいそうですが、どっこいボクら人類には耐性もある。

エアコンの中で過ごすだけでなく、暑くても外で活動することも重要ですよね。

そんなわけで今日も10kmほど走りました(汗)

さて、本題。

夏至の日から七夕の今日まで意識していたことがあります。

「自分は自分」という揺らぐことのないマインドで生きるには?

交通網の発達で歩くしかなかった人類は世界中を移動できるようになった。

さらには情報通信網の発達で地球の裏側にいる人と瞬時に話せる時代でもある。

インターネットが身近な存在になった頃は「世界と繋がる楽しさ」を純粋に味わったものです。

ところが、今やSNS上で繰り広げられるマウンティング合戦に辟易してしまいます。

「いろんな人がいていいよね」とか「いろんな思想があるもんだな」という時代は平和だった気もします。

1990年代からはグローバル化も加速し多様性を尊重する社会が築かれつつあった。

「世界中、みんなで幸せになろうぜ!」みたいな空気があったとも感じています。

それはそれで課題も生まれて21世紀に入ると徐々にナショナリズムが台頭してきた。

「20世紀初頭の世界情勢と同じようだ」とも言われ、確かに国同士の衝突も絶えません。

「混沌とした世界では何が起きるのか?」と不安はつきません。

だからこそ…

世界がどうあったとしても「自分は自分」を貫きたい。

かつての「民主主義」と「共産主義」の対立やアメリカ大統領選挙で見られた「民主党」と「共和党」の対立。

これらが象徴するように「白黒はっきりつけようじゃないか!」というような社会の分断が起きている。

それぞれの陣営が自分たちの「正義」を振りかざし最悪の場合は武力が行使される。

最新兵器を駆使して相手国の民間人の命をも奪いながら勝者は自分たちの正しさを主張する。

SNS上でも自分たちの正義だけを振りかざして誹謗中傷を繰り返す心無い人たちもいる。

実は常に生死の境で毎日を生きている私たちは、混沌とした世界では何かに頼ることで身を守ろうとする。

だから「○○派」とか「○○党」とか集団が構成されていく。

ある一定の思想信条で集団を形成することは否定しませんが…

「白か黒か」というような二項対立でいたら社会は確実に歪むのではないかと思うのです。

本当に幸せな社会というのは「白か黒かではなくグレーゾーン」の中にあるのではないでしょうか。

それはつまり「こちらが正しい」と主張してばかりでなく、「どちらの主張も正しい」と認めること。

相手の正義を認めることは、その人やその組織、あるいはその国を尊重するということでもある。

「民族、宗教、思想、信条などの違いを認め合うこと」にも曖昧さは重要だと思うのです。

現にグローバル化の中にあっても、一定にグレーゾーンを認め合ってきたではありませんか。

スポーツではクラブやチーム、教育では学級や学校と関わってきた中で感じてきたことがあります。

「本当に強い組織には曖昧さがある」ということです。

それぞれの選手、子どもたちや先生たちの正義がぶつかり合って対話を繰り返す。

そこには誰かがつくった基準をクリアできるかできないかでは判断されない空気もある。

個人の主義主張を受け止めながら丁寧に対話のテーブルに着くのです。

「全ての人が唯一無二の存在である」ということもベースにおいて…

すると最後は他者との対話を通して自分と向き合わざるを得なくなります。

混沌とした世界の中で生きるためには…

それぞれの答えは、それぞれ正しい!

と認め合うことが大切なのではないでしょうか。

そんなことを思った令和7年7月7日、七夕。

いつもありがとうございます。

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