ここ数日、いろいろなところで子どもたちの好奇心を見せつけられています。
「これまでの記事で”好奇心”って検索したら、どれくらいヒットするだろうか?」
って思って検索したら、そりゃまあ随分と出てきましたよ(笑)
それくらい「子どもの好奇心」に興味関心があるということかも…
融けた雪を握っては投げる、踏みつぶす。
かと思えば植え込みの匂いをかいでいる。
そうやって遊んでいる小さな子どもを見ながら好奇心について考えさせられました。
「子どもたちは、熱烈な向学心を持ち、学ぶための並外れた能力を遺伝子にプログラムされて、この世界に誕生します。」
遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる異年齢の子どもたちの集団での遊びが、飛躍的に学習能力を高めるのはなぜか。 狩猟採集の時代の、サバイバルのための生活技術の学習から解き明かし、 著者自らのこどもの、教室外での学びから、学びの場としての学校のあり方までを 高名な心理学者が明快に...まさに、そんな場面を見せられた気分です。
彼にすれば自由な遊びの時間で飽きるまで続けている。
「好奇心を育む」っていうけれど「好奇心を見守る」という姿勢でいたいと思います。
「もともと好奇心は持っている」と小さな子どもたちの自然な姿から感じるからです。
「あれなんだ?」
なんて言っては、見つけたものへ駆け寄って触ってみたり踏みつけてみたり。
ホントによく動き回る。
「何をしているのか?」だけではなく「今、何を感じているのか?」
そんなことも気にしながら行動を共にする。
「これくらい余裕を持ってサッカーボーイズたちも見られたらよかったなあ。」
もう大きくなってしまった彼らとも散歩したことを思い出しながら考えます。
「今、何を感じているのか?」ってことに心を馳せる余裕はなかったかも。
「何をしているのか?」にばかり興味関心があったような気がします。
好奇心旺盛に育つには、この時期の関わり方って超重要なんだろうなあ。
安易に答えを教えない。
「なんだろうね?」って考えさせるようなことを言うこともポイントです。
子どもたちの好奇心を育む場が少なくなってしまうのではないかと心配。
ところが…
そんな懸念は、大人の世界でのことだけなのかもしれません。
子どもたちは、ボクら大人が感じているほど心配していないのかも…
なんて思っちゃいます。
「われわれはうちゅうじんだ」
ってやったことがある人、いますよね?
「なんで?」とか考えずに、ただただ面白いからやる。
「不思議だよね?」なんて、きっと思っていない。
それでいいんじゃない?
ついついボクら大人は、何かと学びに繋げたがるのだけれど…
子どもたちにとっては、余計なお世話なのかもしれない。
大人があれこれと用意しちゃうってことがあります。
遊びがなんとなく決まっているようなプレイパークとかスポーツとか。
あんまり用意しすぎると、決まり切ったことしかしなくなる。
だから、あんまりごちゃごちゃ言わないし、用意しすぎない。
こらからもそんな姿勢で環境づくりをしたいって思います。